母はそういう人間だった。裕福な家庭に生まれ育ち、愛される事が当たり前で、物事は自分の思い通りになるのが当然だと思って育ってきた。もちろん唐渓に通った。だが、優しい取り巻きに護られ、唐渓という閉鎖された学校の中にあって、さらに小さな夢のような世界をこの世のすべてと思って過ごした。
甘い恋をし、愛され、結婚をし、美しい子供に囲まれて穏やかで品の良い家庭を築く。そんな母の夢を形作るのに、聖翼人は必要不可欠な存在だった。
聖翼人も、母に愛される事を嫌だとは思わなかった。母が喜べば自分も嬉しかった。母が願う夢の一部として存在する事に、不満はなかった。だが、物事はすべて思い通りにいくとは限らない。
聖翼人は、一般的な女児よりも大きかった。
イマドキ背の高い女児など珍しくもない。むしろスタイルが良いと持て囃されるくらいだ。だが母は、それを嫌がった。
聖翼人は自分の夢の中で天使として存在しなくてはならない。天使とは、何よりも愛らしく、何よりも無垢で美しく、稚く小さく可愛らしい存在。それなのに娘は、自分の望みに反してどんどんと成長していく。
幼稚園に入り、背の順で一番後ろに並ぶ我が子を見た時、母は人目も憚らずに落胆した。
「可愛らしさが欠けるのよ」
頃を同じくして、兄である魁流は小学校でその聡明さを発揮し始めていた。
同じ年頃の児童に比べて冷静で思慮深く、成績は言うまでもなく、運動神経も良かった。両親に口ごたえする事もなく、習い事にも素直に従った。何より見た目も麗しく、まさに母好みに育っていった。
母は、魁流に傾倒するようになっていった。
中学受験が控えると、母は魁流につきっきりとなった。聖翼人を無視したり虐待するような事はなかったが、幼い彼女は母の心の動きを敏く感じていた。
母は兄ばかりを見ている。
聖翼人は寂しかった。だが、どんなに頑張っても年上の兄には敵わない。
兄を妬んだ。兄を僻んだ。
「幼稚だったんだよね」
上を見れば秋の空。少し霞んだ山々は虚ろ。
「嫉妬って、憧れの裏返しみたいなもんなんだなって気付いたのは、三年生の時だったな」
両親に素直な兄が、珍しく反論している現場を目撃した。それは一度ではなく、しばしば起こるようになった。ツバサは心内では喜びつつ、なぜだろうという疑問を持った。疑問は好奇心に変わった。
どうやら兄は、両親、特に母が好まないような場所に出入りするようになったらしい。
どんなところだろう?
後をつけ、辿り着いたのが唐草ハウスだった。
付いてきた聖翼人を、魁流は咎めなかった。
「見ていくか?」
兄は、自分が妹に嫌われている事を知っていたはずだ。気付かないほど鈍感な人間ではない。妹に好かれたいと媚びるような人間でもなかったから、兄妹の仲は希薄だった。だからツバサは、楽しそうな表情で年下の子供達やボランティアの少女と言葉を交わす兄の姿を初めて見た。
家では一度も見たことのない兄だった。
「ここに来ると、ママに怒られるんじゃないの?」
小学生のツバサが幼稚に嫌味を言ってみせたが、魁流は柔らかく笑うだけだった。
「別に言っても構わないよ。隠しているわけでもないからね」
兄は、本当にここが好きなんだな。
ツバサはその時、直感した。
突然やって来たツバサを、施設の人々は自然に受け入れてくれた。ツバサはそれを、心地よいと思った。唐渓中学への進学を前提に生活をしていたツバサは、学校ではなんとなく浮いてもいた。塾で知り合った友達はどことなく競争心を潜ませていて、子供心に心底打ち解けてはいけない相手なのだと理解していた。
それからツバサは、時々唐草ハウスへ足を向けるようになった。特に嫌なことがあって気落ちしていると、まっすぐ家へは帰らずにこちらへ寄り道をするようになった。小学三年にして、初めて手に入れた心落ち着ける場所だったのではないか。
兄の事は嫌いで顔も見たくないと思っていたのに、母に好かれたいと頑張っているのに、どうして母の居る家を避けて兄の居る唐草ハウスへ寄ってしまうのだろう?
その疑問に答えが出る前に、ツバサは唐草ハウスから離れる事となった。兄が、突然姿を消してしまったのだ。
ツバサが唐草ハウスに出入りしているのは、両親にも知れていた。兄が告げ口したワケではない事をツバサは知っている。兄は、そのような事をする人間ではない。
兄が家へ帰ってこなくなってすぐに、両親はツバサが唐草ハウスへ出入りするのを禁じた。それまでにも小言のように咎められていたが、まるで命令のように厳しく禁止され、小学生のツバサはそれに従うしかなかった。
再び唐草ハウスへ足を踏み入れたのは、高校生になってからだった。
「すごく久しぶりだったのに安績さんはちゃんと覚えてくれてて、すごいなって思った」
そう言って笑うツバサの髪の毛を、風が撫でる。
「施設もほとんど変わってなくって、ホッとした」
「なんでまた行こうなんて思ったワケ?」
美鶴にしては珍しい。他人の話に質問を入れるなどあまりない。聡や瑠駆真と話をしていても、へぇ とか、あっそう、などとシラけた返事ばかりをするので、時々二人を怒らせてしまう。
ツバサの話も勝手な一人話だと聞き流そうとしながら、なのに聞き入ってしまうのはなぜだろうか? ただ、他にする事もなくて退屈だからだろうか?
美鶴の質問に、ツバサは少し頬を染めて下を向いた。
「コウにさ、嫌われたくないなって、思ったワケよ」
桜の木に若葉が眩しくなり始めた頃だった。思い出すと、今でもツバサの胸はキュンと少し締め付けられる。
体育館で、一人でシュート練習をするコウの姿は眩しかった。
「誰?」
ぶっきらぼうに無表情な視線を向けてこられても、怖いとか、腹の立つ印象は受けなかった。
カッコイイなぁ
素直にそう思ってしまった。
「つまりは一目惚れ?」
「はい、そうです」
恥ずかしそうに下を向くツバサに、美鶴は呆れたようにため息をつく。
いつからノロけ話になったんだ?
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